1995年1月17日午前5時46分。未曾有の大震災が阪神地方を襲った。後に阪神淡路大震災と命名された大災害です。私はその一週間後、日本薬剤師会からの要請を受け現地に医療ボランティアとして赴いたのを昨日のように思い出します。島根県からは当時島根医科大学薬剤師の先生と私の二人で被災地を目指し、線路の分断されている所は徒歩で瓦礫の間を歩いて現地に到着。そこから一週間現地の高校の廊下に寝袋を持ち込み活動したのを覚えています。その時に実感したのは「人」の命の尊さと当たり前の日々がいかに非凡かということでした。
その年1995年は私が初めて市議会議員選挙に立候補した年でもあり、4番目の子供がこの世に生を受けた年でもあり、私の人生の節目となる年でした。その後1月17日のメモリアルデーの式典に何度か参加。一番新しい参加は5年前で日本PTA協議会総務委員長をさせていただいた際、PTAの委員で式典に参加して多くの命の冥福を祈ったところです。今回は20年目の節目の式典なので当時の日本PTAの役員仲間と同窓会を開催し、17日の20年目の集いに参加しました。肌寒い当日朝5時46分、多くの参加者が一斉に祈りを捧げました。この祈りがお亡くなりになられた多くの方々に届いたはずです。 私たち地方都市でも災害はいつ発生するかわかりません。災害に強い街を建設することと市民の防災意識を高めることの大事さを痛感しています。さらに自衛隊との連携や消防団の育成も欠かせない戦略だと思います。